気仙で暮らし、働く

当事者として復興・まちづくりに携わりたいと移住した気仙での日々のこと、暮らしのことをつづります。

アビジャン女子会

一番始めに参加したのは南スーダンのジュバ女子会。どこに行ってもそこに生きる日本女子の女子会がたくましく、存在している。

昨日に引き続きストレス解消のためのアフターファイブ事情を続ければ、アビジャン女子会なる笑いと毒に満ちた世界があるーそこに生きる女性の掟というか、社会の潤滑油はいたってシンプル「スカートと話は短く」だ。ちょっと解説すると「スカートは短く」、すなわち、男性・アフリカ社会のアビジャン生活、しなやかな女子力で社会に順応しつつも(何もスカートが物理的に短い必要はないけれど)、それに気がつかないで管を巻く男性には「厳しい裁き」をということだ。

外務省統計によると海外に住む日本人の男女比は女性が51.7%で男性を上回っている。さらに男性はだいたい家族を連れて来ているから、単身女性が集まる女子会は日本社会以上に成立しやすい。そして労働環境構造も日本社会のまさに生き写しだと思うのだけれど、どこの組織でも管理職は全て男性で、私も含めて女性は全てヒラだったり、契約だったりするし、日本人50人程度という限られた社会だけあって、みんながみんなを知っているから、この場において、掟に気がつかない男性たちは様々な角度から日々の制裁を受けることになる。

必然的にアビジャン女子会は笑いと毒に満ちた世界である。日本と変わらない綺麗に盛りつけられた食事に、繊細な飲み物、もちろんデザートは複数種類を前に、料理を楽しみつつ、日々のセクハラ発言や、管を巻いて同じ話を繰り返す人は厳しく糾弾される。日本と違うのは残念ながら対象が少なすぎて恋バナがないので、この追求はより厳しくなる。

アビジャン在住の男性のみなさま、どうぞご注意ください。

コートジボワール、アフターファイブ

金曜日、コートジボワール人パートナー3人との打合せが終わったのが18時ーそこにこの魅力的な誘い「どう?」、もちろん「いくいく」。

レストランや居酒屋が道ばたにテーブル、椅子、それに大音量の音楽が流れるスピーカーに、お通し、小鉢、何皿もの食べ物はコートジボワール名物のアチャケに豚とか鳥とかの炭火焼きのせのいわばどんぶり料理に、色とりどりの飲み物はせいぜい、ワイン、ビールくらいになって、シンプル、言ってしまえばワンパターンだけれど、1週間から解放されて土・日を目の前にする金曜日アフターファイブの価値は日本と同じだ。

携帯でさらに友達を呼び出したり、残業中の人が遅れてきたり、他愛のない世間話。30前後の同年代コートジボワール人だけあってお決まりの彼女がどうとか、家族がどうとかに加えて、旬のネタと言えば、アビジャンの例年にない豪雨と引っ越し事情。アフリカ開発銀行の帰還に便乗した家賃の不当な値上げや、詐欺がはやっているらしい。

どうってことない普通のサラリーマンの行動パターンだけれど、なぜかウキウキできてしまう、アビジャン生活。

大好きな国での幸せな時間

SONYとの2014年パブリックビューイングが終わった。始めの「お断り」から7ヶ月。数字にすると、長い期間だけれど、本当に、本当に一瞬で終わってしまいました。

いつも神経は張りつめていたと思う。これまでの仕事では「チャンスを与えていただいたこと」に感謝を常にしてきたけれど、今回は一瞬でも受け身になって、誰かが与えてくれるチャンスを待っていたら、このプロジェクトはするすると手元から逃げて行って、いろいろなところからの横やりで現場にそぐわない方向に形が変えられてしまうことが明らかだったので、現場を信じてくれている人々に希望を見て、現場の役に立つ形になんとかできるよう、なりふり構わず必死にしがみついてきた期間だった。

今はまだ、自分の中で奇麗に整理できていなくて、結論づけるところまでいかないし、ああすれば良かった、こうすれば良かった、なんでこう出来なかったんだろう、と自分の力不足に悔しさがこみ上げたり、考えることが沢山ある。生の現場の「調整」には、喜びも、感動も、そして怒りも、むかつきも、悔しさもあって、「楽しかった」では、到底くくりきれない。

でも、少なくとも言えることは、信頼できるコートジボワール人チームとコートジボワール社会にどっぷり入り、自分がいかにコートジボワールを知らなかったのかを思い知って、そしてコートジボワールがますます好きになって、本当に希望のある国だと実感したこと。そして、技術と気持ちを持っているSONYチームと出会えて一緒に現場を形作ることができて、本当に幸せな時間だったということ。

現場を信じてくれた全ての人たちへ

今日、東京から到着された6人の方ー。

複雑な民族、政治、経済背景を有するコートジボワールでは唯一の人々をつなぐサッカーが絶対に現場の人々の役に立つ。それは現場にいれば、空気を吸うように身に染みて分かる。それを私は自分自身に説明して、理解する必要はない。

けれど遠く東京でそれを理解して、行動にうつして、周りと組織を説得して、一つずつ問題を乗り越えて、ここまで来てくださることは並大抵のことでは無かったと思う。現場で空気として身にしみている私ですら、一つずつ積み重ねていくのが苦しいときも正直あった(やめたい、と思ったことは一度も無いけれど)。

一番始めのメールから半年。一人一人が様々な立場から現場を信じてくれて、そうして、今日という場に立つことが出来ている。そして到着した6人の後ろにも計り知れない努力をはかってくれた人たちがつながっている。

現場を信じてくれた全ての人に感謝して。最高の日々を作っていきたい。

http://www.jica.go.jp/press/2014/20140528_01.html

 

6-3.5=2.5

普段の仕事は、計画して困難を想定して、なるべくリスクを排除して、計画通りに進むようにモニタリングして…なんてやっているけれど、私生活は、その場その場で精一杯考えて話し合って結論を出すという、仕事上とは全く相反する生き方をしているのは間違いない。

5月4日で結婚6周年、そのうち別居3.5年、同居2.5年。最近、民法752条「夫婦は同居しなければならない」の文面を見たときは仰天した−これは違法状態だったのか…

the principle of hiding hand-神様が困難を事前に隠してくれているから上手くいくこともあるー。結婚式で恩師がくれた言葉で、Development project observedという論文からとったものだ。1960年代に開発援助のプロジェクトが上手くいった、上手く行かなかったというのをつぶさに探ってみると、計画の善し悪しよりも、いろいろな困難に直面したときに、それをいかに乗り越えられるかで成果が変わっていて、実はスジが悪いプロジェクトでも非常に高い成果を出せるということ、そしてミソは、もしその困難が先に見えてしまっていたらすばらしい成果が結果として出たそのプロジェクトには着手されなかったであろう、というものだ。

まさにそのとおり、6年前、いろいろ見えていたら恐ろしくて実行に移せなかったかもしれない。「計画」として、海外に行くときは、旦那さんが育休をとって一緒に生活して…なんて描いていたけれど、その結果は現在の違法状態の通りである。

2人で叶えたい夢があって、10年間目指して来た私の夢があって、それぞれ積み重ねてきた時間と想いがあって、目の前の状況があって。一つずつの直面で、話し合いや決断は簡単ではなかったけれど、それを乗り越えることで、2人で価値観を育ててこれた、と自信を持って思うー。そんなことを考えながら、アフリカ大陸の遥か東を想うのでした。

コートジボワール、故郷となる。

1年と5ヶ月前、コートジボワールに着いた瞬間から感じていたーおかしいー、と。

私のフランス語の教科書1ページ目には確かに、18時までの挨拶は「ボンジュール」です。と、書いてあったはずなのに正午を1分すぎると「ボン・ソワール(今晩は)」と、そして、人にぶつかってしまったときは「パードン」と書いてあったのにここでは「ドゥースモン」(気をつけて!)と言われるー。うーん、いや、教科書が実態に添わないことは良く有ることだ、と信じて、それを1年以上重ねた私が間違いだったのである。

日本人でフランス語が出来る人は大抵フランスを経由して来ていてその人たちは口々に「ここの人たちって何言ってるか分かんないのよね」と言っている。なんとなく笑顔で流すけれど、なんですと?これはフランス本土の言葉とは違うでしょうか?私はよーく聞き取れますとも、理解できますとも。でも、そういえば思い当たって、私の苦手な人種はフランス人なんですよ。もっと口開けてはっきりしゃべってくださいよ。

という訳で、引き続きドナー会合の話なのだが、生粋のフランス人が入るドナー会合は緊張感が5割増しだ。きっと、日本の東北に留学して東北弁を標準語だと信じて習得し、その後東京に就職するようになった留学生の気持ちのようで、なるべく自分のアクセントを隠すようにしゃべるのである。フランス語は恐ろしい言語で常に頭のなかを時制と冠詞と前置詞と男性名詞か女性名詞かがフル回転で出入りして行くので、普通でも頭はスイッチモードなのにこれに発音まで注意して、しかも3時間とかなると終わる頃には、ぐったりしてくるのである。

はー、ドナー会合が終わって、コートジボワール人との会話に入るとなんとほっとすることか。留学生が故郷に帰って来た時の気持ちはこんな感じに違いない。

世界は思ったよりぶっちゃけている

国際協力の世界にどっぷり浸かりながらも、私の視点は高校生くらいからナナメで、「本当は日本のためだった国際協力」とか、なんだか奇麗なことを言っていてもきっと各国の利権争いなんだ、と随分長い間思っていた(そして、結局これが修士論文のテーマにまでなるんだけれど、これは長くなるのでまた機会があれば。)

それぞれの国が税金を頂いて実施している以上、そういう事もゼロではないのは事実だし、だからこそ、意外に喜ばれる協力があったりすることもあるのだけれど、現場に来て、何よりも気がついたことは世界は意外にぶっちゃけているということである。

2月に1回位、ドナー会合なるものがある。普段はそれぞれがコートジボワール政府とやり取りをしている我が社のような組織が集まって、今こんなことやってますとか、誰か一緒にやりませんか、とか、一緒に政府に文句を言いましょうとか話し合って、情報を共有したり、戦略を練ったりするのである。

私もまちづくりやインフラづくりの会合に参加していて、これが想像と違って以外にぶっちゃけトークで、みんなが構想の段階から話を共有するので競合他社間の重複が避けられるし、うちが準備のための調査をやるから、誰か作りたい人、なんて事になったりして極めて実用的、有用なのである。

しかも、意見は普段とは違う視点が得られて結構面白い。一昨日の会合のときは、年率8%で車が増加しているにもかかわらず、毎日交通事故で死者が出るほど交通マナーが悪い状況をこのままでは放っておけないということで、EUがドライバー教育を提案するけど、ぶっちゃけ、あとはお金無いので誰かこれに予算をつけてやりませんか、ということがトピックになった。

世界銀行が研修をきちんとクリアしたら、予算をあげる方式がいいんじゃないか、と提案すれば、私もすっかり我が社の思考経路が身に付いているから、こんなのは、お金をあげるだけじゃなくてちゃんと、研修するための組織を強化した方が良いとか、お膝元フランスはいやいや、そもそも職業訓練としてきちんと教育カリキュラムに入れて行かなければダメだ、とそれぞれ言いたいことを言い合うのである。

一番地べたで見てみると、結構世界はぶっちゃけていて、悪くないと思うのである。