気仙で暮らし、働く

当事者として復興・まちづくりに携わりたいと移住した気仙での日々のこと、暮らしのことをつづります。

47年ぶりの橋と、平和

「今、この美しいインフラを前に、私は団結、信頼、そして平和を確信しています」ーブラウン管の分厚い画面に映る大統領、全閣僚、外交団、ドナー、そして万を越える人々。なんだか、私までぐっと来るものがあるー。

1週間くらい前から、インフラ省も建設省も道路公団も、どさくさにまぎれてアビジャン港までもアポがとれず仕事が進まなかった。かくいう私も3日くらい前から、ソワソワしてなんだか落ち着かない。

今日はといえば、15時頃にスタッフがテレビのある食堂に、溜まりにたまった破棄書類とシュレッダーをそそくさと持ち込み始め、また別のスタッフは「広いテーブルが必要なんだよね」と、年賀状とカレンダーの発送作業道具を運び込む。私はといえば、もう言い訳はしません、潔く手ブラでテレビの前へ。16時15分、予定からたったの15分遅れで、大統領が画面に登場する。ベディエ橋(第3橋梁)ーアビジャンで47年ぶりの橋の開通式典である。

話は少し飛んで、初めていわゆる途上国であるブータンに1人で出かけた学生時代、橋が私の目にとまった事を覚えている。深い緑の山と青い突き抜ける空と伝統的様式を守った家々の間にかかる、無骨なコンクリートの橋に、チベット仏教の色折りなす旗がきらめいて、これまで隣村に行くのに2日かけて谷を越えていた人々の生活を劇的に変えていた。

そのあと大学院に行って、インドに行って、札幌に行って、東京に戻って来たときに、その橋を手がけた人と偶然、一緒に仕事をさせていただくことになる。紛争直後のスリランカ東部での橋のプロジェクトだった。出張先の片田舎で、カレーを食べながら世界中で橋を手がけてきたその専門家が言った言葉がこうだった「紛争があればまず橋は壊されます。そして復興が始まると真っ先に橋から着手されます。橋は平和の象徴です」と。

その例にもれず、この橋も、起工式が行われたのは1999年。ちょうど、一番始めのクーデターの年だった。幸いにも(まだ出来ていなかったので)壊されることは無かったけれど、そこから2011年まで続く内戦の間は工事は完全に中断された。結果、人口480万都市のアビジャンを繋いだのはたった2本の橋。1本目が独立前の1957年、2本目がその10年後の1967年、それ以降、人口が3倍以上にふくれあがったにも関わらず、橋が増えることは無かった。それどころか、状況が緊張するたびに橋は封鎖され、人々の移動が制限された。今は一つの橋に乗用車に換算して18万台を越える車が通り、朝夕は渡るだけで1時間はゆうにかかる位、恐ろしい渋滞の名所と成り果てた。

そして、2011年4.11の終戦後、すぐに着手されたのが工事の再開だった。それから3年半。難しい政治情勢のなかで、この大統領のセリフを「ああ良かった」と受け取るほどナイーブではないけれど、それでも、インフラに罪は無い。明日からアビジャンの生活を変えるインフラが誕生した半世紀ぶりの瞬間にコートジボワール人と立ち会えたことを、今日は素直に感動しよう。